入刀和酪洞公記 一月条
一月五日条
天気:晴 寒暖:微冷
<アープラノートについて>
初使用の感触としては、そこまで難解でもない。だが、どのページを誰でも簡単に編集可能、というのは結構恐ろしい。というのも、他人が書いている文章をうっかり消してしまわないか、邪魔してしまわないかと不安なのだ。私が気をつければいい話ではあるが、それでも人間は未来永劫間違えない、ということはありえないのだから、私が決して間違えないという確証は無い。人間というものはいくら気をつけても間違える生物であるのだから。
自動バックアップ機能もありますから、間違えて消しても復活させることができたりしますよ久住哲.icon
ありがとうございます。それなら少し安心です塩ミルク.icon
<最近の気候について>
とても寒い。卜部兼好は「家は夏涼しいように作れ」と言ったらしいが、それでもこの寒さは耐え難い。いくら厚着をしても手や顔は冷えるし、いつも厚着をしている訳にも行かないだろう。そもそも厚着をすると身体にまとわりつく質量が多くてうざったい。卜部兼好は恐らく寒暖が穏健であった鎌倉時代の人であったからこのようなことを言えるのだろう。人間は恒温動物だから、それなりに外気に合わせて体温は調節出来るにしても、だろう。人間が身体の皮膚から何かしら、何やかんやして、周囲の気温をあげることができるようになればいいのに。
<シェリングへの興味>
最近、フリードリヒ・シェリングに興味を持ち始めた。Wikipediaを見ただけではあるが、「自然」概念や「人間的自由」というようなトピックはとても興味深い。
<『デカルト的省察』について>
まだ少し読んだばかりだが、世間一般に言われている限りの「悪文」という感覚はしない。恐らく翻訳者がそうしてくれているのだろう。かなり言いたいことがはっきりしているように思う。さて、この本のここまでの感想としては、フッサールはかなり根本的なことを行おうとしているように思う。デカルト主義を、デカルトを超えて徹底するために、デカルトの予断である数学や幾何学、論理学の根本も判断の留保に入れ考察する。そこで得られた概念から次の概念へと発展する。だから今何をやっているのかがとてもわかりやすい。この辺りは数学専攻らしい文章だと思う。
<勉強について>
勉強というのはとても楽しい。それが自分の未熟さを明らかにさせるようなものであるからだ。最近気づいたことだが、私は勉強しないと具合が悪くなるらしい。とにかくそういうところで学問をし続けることが私の生きがいであるらしい。
<不眠傾向について>
最近本当に眠れない。寝たとしても2時間くらいしたら中途覚醒して、そしてまた寝る。場合によってはもう一回起きることもある。そして起きようと思う時間から1時間2時間後くらいに起きるのだ。そして寝ている間、悪夢しか見ない。まともに快眠できた試しがここ2ヶ月ほどない。多分不眠症だろう。この前いつも飲んでいる薬を飲まずに寝たことがあったが、神経が以上に高揚しているためかは分からないが、無数もの見えない手に気持ち悪くベタベタと触られる感触と、道路を走っている車に飛び込む感触を何度も味合わされた。私の見る悪夢はいつも精神に攻撃を仕掛けてくる。悪夢というものはそういうものだろう、と言うかもしれないが、それでもあの夢は起きてからしばらく気持ち悪いし、その日の夜はその夢のことを思って寝る気になれない。加えて、悪夢はいつも頭痛と倦怠感を伴ってやってくる。起きた時には夢の嫌な感触と頭痛、そして倦怠感を伴ってやってくる。今日も悪夢を見た。本当にいい加減にして欲しい。寝る前にスマホを見るのがいけないのか、寝る体勢がおかしいのか、枕がおかしいのか。それでいていつもの枕と布団、毛布でないと眠れないのだから、本当に睡眠とは面倒くさい。他の人は睡眠を至福と考えるのだろうが、私は睡眠を至福とは思わない。布団なんてのはずっと潜ってると蒸れてくるし蒸し暑くなってくる。冬の時期だと布団外に出るとマイナス気温が襲ってくる。戻るとまた温くて蒸れた気持ち悪い感触がある。快く眠れた試しがないし、眠くなる、寝なければならない、というのは私の意欲を削がせてしまうものなのだし、私は徹夜ができないので、早めに寝なければ本当に一日動けなくなる。睡眠とはかくも厄介なものであるか。
<雑記>
中世日記記主へのあこがれから、漢文で一度日記を書いてみたいが、私の漢文が正しいのかを私は判断できないし、そこまで漢文は上手くない。
爵位か官途が欲しい。適当に名乗るのも手だが私のセンスはズレているような気がするし、自分で名乗るのはなんだか白々しい、というか、自意識過剰のような感覚がするし、流れもないのにそういうことを突然言うのはなんだか滑っている気がする。
自分についての独演会をやりたい。というのも、私はわかったことや理解したことを言葉にしたがる癖がある。加えてそれを誰かに読んでもらいたい気質がある。自分一人だけのノートに何かを書きなぐるというだけでもかなりアレなのに、それを周りに見てもらいたい、というのはかなり面倒くさい性質だと思う。
勢いに乗るとものすごい速さで筆が滑る。落ち着いた状態で書いていても書いているうちに「ものぐるほしけれ」になってくる。
独演会というか独白というか、そういうものについて書いてもいいのだろうか。
一月五日だけでこの量だから、ページが肥大化しないだろうか。
一月六日条
天候:晴
寒暖:寒
肥大化を避けるため、今日のうちに明日の分を書いておく。どうせ日に結びついたことなんてあまり書かないのだから問題あるまい。
<金銭>
金は本当に足りなくなるだろう。一人暮らしとは金がいるとよく聞く。電気代水道代ガス代………色々な金が空を飛び彼方へ消えてゆくのだろうか。もはや一日一食と言った追い詰められたような生活も覚悟せねばなるまい。私はサラリーマン的な労働ができない不適合者である。念の為に言っておくと、サラリーマンは素晴らしいと思う。私にはできないようなことをできる、少なくとも手を抜きながらもできる、というのは素晴らしい。サラリーマン的労働ができないとなると、私は本当に金欠になることが確定なのだ。
<希死念慮について>
私にも人並みの希死念慮はある。ただ今は生きているのが楽しいから、表面上はそうなっていないだけだ。もし死にたいと思っていたとしても、多分本当に死ねないのだろうな、とは思う。だからいつも死にたいと思う時は、財布と着の身着のままを持って家出しよう、そのままその辺で野垂れ死んでしまおう、どうせ私なんて誰も助けない。とも思うのだ。それでも、警察に見つかって返されるのがオチだろうな、とも思う。これまでに何度も私は死にたいと思ったことがあるし、ある時期などはずっとそう考えていた。時には未遂までした。けれども生きている。本当に私を生かしてくれた全てのものに私は感謝しなければ。
<重い、と言われることについて>
私はたまに「重い」と言われる。盲目的だとか、信仰に近い、とまでいわれてしまう。私でもこれはわかっている。これは本当に私の大きな傷跡なのだ。私が助けられるのに助けなかった、という出来事が私を責めさいなむ。
夜に書いているから、かなりおかしな方向になってしまった。もう寝た方が良さそうだ。
<読書メモについて>
読書メモを取るにしても、習慣化がしにくいし、読書メモを取らねばならないという気持ちで逆に読書を躊躇ってしまう。なんとも怠惰。
<余命わずかの長期休暇>
長期休暇が終わる時というのはいくら私が受験が終わってもはやあとは惰性でもなんとかなる、という状態でも、私が勉強や学問大好きである、という面も含めても気だるいものだ。恐らく「習慣的なもの」が変わる、というのが人間にとっては苦痛なのだろう。人間は年老いると新しいものごとを考えるのが苦痛になる、と言うが、特に年老いていなくても人間は新しいものごとを考えたり行動したりするのが苦手なのではなかろうか。もしかしたら単純に私の特性(障碍、というのがとても嫌なので「特性」と言う。それにハンディキャップと言えるほど困っている訳でもないので、個人的には私の持っているADHDだとかを「障碍」というのはしっくり来ない。)から来るものなのかもしれない。
<本棚が足りない>
断続的に本を買うため、本棚が足りなくなってきた。ダンボールの中に入っている本を含めれば、300冊はある。これを新居に持っていく訳には行かないから、表に出している本だけを持っていくことになるだろう。それでも恐らく100冊は超える。ただ、読んではいないものが多い。セネカあたりが本ばかりを買って読まないものを批判していたような気がする。
<インターネットと現実の間の差異>
インターネット上ではこうして沢山ものを書いて沢山何かしらをしているのに、現実では寒いからと布団の中に潜り込んで全く動いていない、というのは本当に面白い。この疲れは色々な事をやったための疲れなのか、それとも何もやっていないがための精神の疲れなのか。
一月七日条
天候:晴
寒暖:極寒
一月十六日条
天候:雨
寒暖:やや暖
日記をすっぽかしてしまった。PCが使用可能であることがわかったためずっとPCばかりやっていた。
一月二十二日条
天候:晴
寒暖:寒
最近日記をよくすっぽかす。日記を書くということは私にとっては習慣化しがたいことである。毎日日記をつける人はすごい。最近、Discordが不安定で、ブラウザ版をよく使用するようになった。昨日は「あーぷら版文字会」に参加した。思ってもみなかったところで評価されてうれしく思う。また何かを書こうかと思った。
服用する薬を変えた。インチュニブというらしい。飲むとゆっくりと眠くなっていくから、奇妙な感覚がする。緩やかに意識が落ちていく感覚は少し恐ろしい。